たいらくなていたらく

頽落(たいらく)とは - 頽廃してしまった人間存在。堕落と言い換えてもよいだろう。ハイデガーの言葉。

それ普通のことだから(つまんないし意味ないよ)

真面目なツイートに対する「それ普通のことだから(なんも上手いこと言ってないよ)」。Amazonの実用書とか映画レビューとかの、 内容が凡庸すぎてつまんなかったです価値なし、も似てる。

私の場合は、 ネットサーフィンしてて、うわーこの記事、何も言ってないじゃん。無に等しい。時間の無駄だったわ。もっとまともなこと書く人いないのかよ。人類に期待しすぎたー、とかかな。せっかくエネルギーをかけたのに、なんの目新しさもなかった。普通でつまんない。

奮発して買った本だったり、3時間かけて観た映画だったりがありきたりで面白くなかったらとても残念だし、えーっと思うし、プロなのに?と文句も言いたくなるかもしれない。けど大学に入ったあたりから、リアルの人間関係でも「それ普通のことだから(つまんないし意味ないよ)」に出会うようになった。

友だちと会っても、仕事で話し合いしてても、顔を合わせる場面になると、普通のことを言ってはならない、オリジナリティをみせろ、新しいことを言え、わかったか、という空気をたまに感じる。場が異次元になる。たぶんこれは、普通のことを言ってはならない!というどこからともない戒めが、なんとなく空気に乗って始まっていく。(こうした戒めの出所、戒めに伝染しやすい人・しにくい人など、これは別の物語、いつかまた、別のときにはなすことにしよう。)

そうすると謎の緊張感から、奇々怪々な計画とか、奇跡とか悪魔が生まれる。ただ、そういう生活に慣れてくると、自分がすでに考えた・見たことがある・感じていることが他人から出てくると、「知ってる」「つまらない」と切り捨ててることがある。(自分は生活の些細なことから再発見したり、繰り返す毎日に感動したり、そこからひらめいたりするのに?)でも結局は他人なんだから、いくら似たようなことを言っていても、同じ時代を経験してても、よくよく聞けば別の話のはず。そしてそれを「知ってる」と思っても、どこまで本当かはわからない。

 

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 人類みんな他人。私以外私じゃないの。そんな風に考えると、それ普通のことだから、というのは誰かと現実を共有できてる証拠なんじゃないか。別々の人間である二人が、どこかでわかり合ってるのかも。

そして、その普通はきっと世界の普通じゃない。みんながわかり合ってたら言葉はいらないし、道を歩いてるあの人には異常かもしれない。というか異常だ。向かいのおじさんがオレの一日を紹介してきたら、やべえな、と思うポイントが聞いてて無数にあるだろう。なんだそれ普通、と言えるとしたら、もしかして極めて特殊で、貴重で、大切な了解が、私とおじさんの関係という小さな場所で生じてるのかも。学校とか家族とか業界とか、より社会的な場所でおじさんと共有している「常識」*2は単なる目隠しかもしれないけど。

「それ私には普通のことだから。もう知ってる。わかる」が、個人と個人の間で起こって、ちょっとずつ増えていったら。私とあなたの普通がたくさん生まれていったら。友情とかきもいけど、私泣いたりするんじゃないかと感じてる。はっはーん。

ありふれている、当たり前、当然だって別にいいじゃん。

だって、

「うちのお姉さんには、トロンボーンとオーブントースターの違いだって、きっとよくわからないよ。グッチとプラダの違いなら一目でわかるみたいだけど」

「人にはそれぞれの戦場があるんだ」彼は微笑む。*3

 このように、にっ人間存在とは個別的な様相を持ちまた現実世界においても唯一無二の孤独を生き抜いてあばばばばば。

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そこで私とあなたの普通があるなんて、ほとんど恋人じゃん。

 「普通」は売れないしパッとしないし、瞬時に世界の見え方を変えたりしないけど。善いのか悪いのか、正しいか間違ってるかなんてわかんないけど、一瞬でぶっ壊されるそのときまで、長い時間かけて作ってるんだよ。

年末には効用がある。これは信じていいことなんだよ。

25才にして初めて、年末の効用に気づいた。ちょっと遅かったとも思うけれど、ついに気づいた。師も走る師走の焦燥感にすっかり飲まれている。

特にクリスマスを過ぎたあたりから世界か私か、とにかくおかしくなり始め、紅白もガキ使もやってない今夜30日がたぶんピークなんじゃないかと思う。日中は拭き掃除をしてみたし、それから老舗のデパートにも寄ってみたし、帰ってきたら使ってない化粧品も思い切って捨てた。

断捨離。新年を迎え入れる準備。忘年会シーズン。それが年末。

色々と説明はできるけど(もう25回目だし)、どうにもしっくりこない。節目、というよりも「おしまい」の感覚が強い気がする。テレビ欄の番組タイトルの後ろに(終)の文字を見つけたときの気持ちだ。正確には、あ、いつも見てる神風怪盗ジャンヌ、次が最終回だって。ほら、おしまいって書いてあるよ、とか、予期せぬ宣告がたまにあった子ども時代の恐怖だ。子どもはフラグを察する力が低いので、あーこれはそろそろ展開が収束していく流れだなー、もう○○話だし、とかいう結末への準備がないし、故にもちろん納得もしない。え、ずっと見てたのに。。えっ。もう見られないのこれ。なんだと。学校が現実生活のほぼ全てだとしたら、小学生の空想や遊びの世界なんて大体アニメ関連である。それが突然、忘れる前に失われるのである。ブツン。

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年が終わることにそわそわ落ち着かないのも、似たようなことなんだろうか。キイテナイヨ!という謎の感覚。けど(もう大人だから)、信号の色が赤青から玉虫色とか水玉模様に変更になるわけじゃないし、ネクタイもスーツも廃止されないし、引力も弱まらないし、年を越しても本当はそんなに何かが変わるわけじゃないことも知っている。知ってる、知ってる、と唱える。

それでも夜更かししてGoogleが教えてくれないこと思いついたりしないかな、と考えを巡らせてしまうのは、この「おしまい」の感覚がとてつもない何かに結びついているんだろうなあとひしひし感じるからだ。だから今夜は、おしまいなんて嬉しくないし、さっさと寝よう、とはならない。

おしまいって何だ。究極的な「おしまい」はやっぱり、死だろう。一人称の死。つまり、私自身が死ぬということ。まあ、いつか私が死んだとしても、世界は終わらないし他の人たちもしばらく生き続けるだろう。たぶん。(そう考えない人もいるけど、これは別の物語、いつかまた、別のときにはなすことにしよう。)2016年が終わるというのも、2017年の始まりと全く繋がっているわけで、別に大丈夫だよね、世界は続いているし、ほんの少しのあいだ滅びてまた生まれ直したりしない。真っ暗・真っ白の無の瞬間なんてなく、2016年の死=2017年の誕生。

それなのに、何かが終わってしまう、死んでしまう、突然のお別れが迫っている。そんな考えが、年末になってからぴったり寄り添って離れない。はっ。これはつまり、、大変残念、2016年の私がもうじき死ぬ。(!)

え、ずっと生きて過ごしてきたのに。。えっ。もう今年と私、消えてなくなるの。なんだと。

年末の焦燥感は、死の恐怖でした。初めての年末の掃除しなくちゃ、なんか髪も染め直しておこう、ちょっとカフェで読書しておこう、お気に入りの通りを散歩しよう、ハガキ出して、あいつにメールして、こいつには、、もういいか、諦めよう、という一連の行動、完全に死期を悟った人だったよ。はーん。。

土に還りてえ。死んだらほんとに土に還れるかわかんないから生きてほんとに還れるのか確かめてる。一者とのゴーイツとかリューシュツとか言う人*1もいるけど、一者さん誰だよ。。とにかく海に灰を撒くとかエモい話じゃないんだ肝に銘じな。

 とか、先ほど、しらふで酔っ払いみたいな死後の心配ツイートをしてしまったのも、切実な「おしまい」への恐怖からだったんですね。よかった。

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年末には効用がある。これは信じていいことなんだよ。